2013年06月16日

昭和の旅行事情

【チッキ】と列車旅行
チョッキ ではないです。
チョキでもないです、誤植ではありません。
手荷物預り証の英語をCheckと云って、なまってチッキと云ったそうです。
今はジェ-アールで、とここまで書いて思いつく人は多分昭和三十年より前に生まれた人でしょう。
日本国有鉄道(国鉄)の時代に、手荷物として持ち運べないくらいの荷物を、購入した行き先までの切符を添えて申し込むと、その荷物を目的地まで別便で運んでくれるサービスでした。
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今では、海外からの別送品のような形式に似ているかもしれません。何しろ小学校低学年の頃に聞いて、親が良く利用したのを見ていまし。申し込む所などを実際に見ていませんので、もしかすると持っている切符と同じ列車の荷物車に乗せて、運んでいたのかもしれません。ですから、出発駅まで重い荷物を運んで、到着地の窓口で受け取って最終目的地に運んだ可能性もあります。このへんは定かではありません。しかし、今のように自宅まで取りに行く、或いは最寄りのお店に出しに行く、そして旅行先まで配達してくれるといったことがなかったので、きっと乗車する駅まで運んだのでしょう。荷物の大きさと口数によっては、やっぱり別口の貨物列車で運搬し、後日指定の駅まで取りに行ったようにも薄れた記憶の奥にその光景があるようにも感じます。
今で云う宅配便ですね。父親が荷造りをしている最中によく「これは、チッキだ」と言っているのは鮮明に思い出します。お土産だったのか、洋服などだったのか、その中身は判然としませんが、確かに切符と一緒にして母親が手続きしていたようにも思います。何時この制度がなくなったのかは、あらためて調べてみようと思います。

さて家を整理していたら、昭和の時代の国鉄の切符をアルバムの中に見つけました。
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昭和31年に東京ー広島で乗車した時の乗車券と特急券(かもめ号)です。当時この列車は長崎まで運行していたそうで、その後花形の「あさかぜ」「さくら」などの寝台特急が主流になるまでは、全座席木製(勿論一等【今のグリーン】には乗ったことがないので、たぶんそれらはリクライニング付きの快適座席だろうと想像しますが)で全区間乗車したのです。
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特急券は当然ながら駅で買うことが前提ですが、当時はまだ旅行会社の窓口がなかったのでしょう、大きなデパートに切符販売コーナーがあって、父親が仕事先に近い場所で購入したものなのでしょう。価格もさることながら、日付の刻印とパンチが入った、いわゆる「硬券」で、裏は白か何やら注意書きが書いてある厚さ1mmかもう少しある紙製です。
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駅で切符を買うには窓口で「大人xx枚」「子供xx枚」と申告、駅員は横にある切符発券箱(発券といっても、一枚一枚引き抜く訳で}から取って、直ぐ横にある刻印機に払うように券を通して渡してくれます。これは日付けを印字するもので、この日から何日間が有効期間だったのです。ですからこれを出札と言っていました。今のように電子式になってしまうと、券売機だけの風景で、人間味のない殺風景に感じます。
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乗車するときは、改札に立っている駅員に切符を見せるのではなく、「渡して」、カチカチとさせている「切符切り(子供は少なくともこう呼んでいました)」でハサミを入れてもらいます。
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これが乗車時のチェックだった。駅によってこの切りかきの形が違うのに気が付いたのは、ずいぶんと大きくなってから。広島駅と東京駅、そして乗り換えて丸ノ内線と西武池袋線の各駅でそれぞれ買う切符とそのハサミ跡を、幾度か収集したのだけれど、今はどこにしまってあるやら。
切符の裏が茶色くなって、自動改札になったときでさえ驚きましたが、更に非接触で一瞬で乗り降りができて運賃の支払いもできるようになる、そして小学生が通ると「ピヨピヨ」となる機械までできるなんて、夢のようですね。でも、改札口の駅員さんがリズミカルに切符ハサミをならしていた、この風景は今ではありえない世界になってしまいました。
それと通学も通勤も定期券はありました。これらもいちいち出札口の窓口にいって、新規も更新も駅員さんの手作業でやってもらいます。駅名、有効期限、発行日はそれぞれハンコを押して、名前などは手書きで書いていた記憶です。この作業は結構大変だったでしょうね。
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ましてや、国鉄と私鉄、あるいは私鉄を乗継でも、会社ごとにいちいち別の定期券を持っていたはずです。自分は子供だったので、何社も電車を乗り継いで、定期券で乗車した経験はありませんから、正確なことはわかりませんが、当時の出札の風景をおもいだしても、まず間違いがないと思います。
特急列車、しかも寝台列車などで毎年旅行で来たのは、しがないサラリーマンの子供としては珍しいことでした。休み中の宿題で日記にその様子を書いては、友達や担任の先生に羨望のまなざしと話題提供で盛り上がった記憶があります。寝台列車は居間で云うB寝台、三段式で、数年枚に惜しまれて引退した「あさかぜ」号の車両の前の形式、つまり第一代めの寝台列車だったのです。朝起きて洗面所で顔を洗う、喉が渇いて横にある給水機から、平べったい紙製のコップを左右脇から力を込めると、少し広がって少量の水が汲める、これを数回飲んで自席にもどる光景は鮮明に思い出せます。
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しかも、ガタゴトゆれるのを、か細い足で踏ん張ってこの作業をこなすのも、低学年にしてはなれた様子だったように見られていました。トイレは 便器を除くと「たしか」下のレールを支えている枕木が飛ぶように眼もとまらぬ速さで動いていた記憶です。つまり、垂れ流しだったように思います。train-toilet.jpg
列車の旅で一番の思い出は、やっぱり食堂車ですね。時間になると込むので、早めの時間設定で家族で移動して、暮れゆく車窓を眺めながら「カレーライス」を食べ、楽しいひと時を過ごしたのでした。
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でも、毎回毎回とは行きませんね、やはり食堂社内の値段は高かったのでしょう。父親も大好きなビールを我慢しているようにも覚えていますから、何か特別なことがない限りは、やっぱり途中駅で買うおべんとうとお茶が主流だったのです。

旅行で思い出す光景の一つが「赤帽」さん。駅に到着して重そうな手荷物を持っていると、改札口から列車の席か入り口まで運んでくれるおじさんのことです。女性の赤帽さんはいなかった記憶ですから、この呼び方で良いでしょう。
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ゲートル巻きの足元は軽やかで、頭には短い鍔の赤いフエルトの帽子を被っているので、その名前が通称のように使われていました。調べてみると2000年迄上野駅にはまだ居たそうで、最後の赤帽さんは2006年に岡山駅で廃止されたそうで、結構最近まで活躍していたのですね。一個あたり500円(2006年)を、荷物の重さや、大小に関係なく払っていたそうで、私が子供の頃に見た赤帽さんは、甲斐甲斐しく荷物を担いでくれる頼もしい姿で、母親と子供だけで寝台列車に乗り込む場合にはとても助かったように思います。チッキとあわせて、長旅で運ぶ必要のあるいろいろな荷物を列車から降りるときにも手伝ってくれて、今では懐かしい風景です。
一方では、宅急便のお手軽版のように、同じ名前で赤いマーキングの小型トラックが走っています、今の人は「赤帽」と云うと、九分九厘こっちを連想するでしょうね。でも起源は旅行の時の駅がキーワードなんです。
現代でもこの様な必要な場合もあると思いますので、復活するかもしれません。
posted by seepapa at 13:29| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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